日本人の宗教観・死生観その3

※ 天台宗ほか主な宗派の考え方の紹介
  ● 天台宗は、「一念(一瞬の心)三千」ですべての現象は、その時の心の
   持ちようが反映する、として悟りを説く。
    この宗派は、天台、密教、戒律、禅の4つを相承しており、どれもが
   重要と説くために、どの宗派との違いが少ないのを特徴とする。
   したがってこの天台宗総本山の比叡山延暦寺からは、多彩な僧侶が排出
   した。
    一方の真言宗は、真言密教として盛んに加持祈祷を行って民心を掌握
   するとともに、奈良の諸宗とも協調し、現実的色彩の濃い「即身成仏」の教義を説く。

   これら平安仏教は貴族の帰依と保護を受けたことから貴族仏教ともいわ
  れ、その結果、僧位僧官が世俗の権威と絶えず密着し、貴族たちから荘園
  の寄進を受けていた。そのため、その荘園を守るために僧兵を蓄えたが、          それはやがて僧兵の横暴を招いて、ついには、寺院が1つの権勢の中心になっていき、それとともに民衆の心からは遊離していくことになる。

  ● このような情勢の中で、平安中期の末法思想が、当時の飢饉、大火、地
   震などによる社会不安と一致して人心を強くとらえ、阿弥陀信仰が栄え
   てきた。
   それは、ひたすら念仏によって極楽浄土への往生を願うもので、市聖と
  呼ばれた空也、往生要集を表した源信、華厳思想と結びついて融通念仏宗
  を開いた良忍などによって急速に拡大していく。
   一方、武士階級の台頭に伴って、武士の心を養い鍛える教えとして、禅
  の宗派も鎌倉時代に入って大きな勢威を振るうようになった。

   浄土宗は、源空法然)によって唱えられ、その内容は、一向専修の
  念仏、すなわち、一心に弥陀の名号を念ずることこそ、浄土に往生する
  正しい方法であるとして、ひたすら称名念仏を説く。
     
   法然没後、この宗派から一遍の時宗(ただ心のままに、何も期待せず
  念仏する。念仏で往生するのではなく、念仏即往生と説く)が出た。

   一方、一時は法然に傾注した親鸞は、浄土真宗を開き、「信」という
  一筋の道をどこまでも徹底し、他力を信じる心を説いた。すなわち、求め
  なくとも仏は救ってくれ、いずれは仏になることを約束されているので修        行は全く必要がなく、念仏は感謝の行いであるとするのである。

   この他にまた、鎌倉仏教に新機軸をもたらした禅宗がある。
   禅は既に奈良時代以来しばしば伝えられ、最澄も4宗の1つに禅を数え
  ているが、その確立は、武士階級の台頭を、中国の宋に2回も渡った栄西
  によるところが多い。
   栄西は帰国後、臨済宗を広め、厳正な座禅を実践して、新興勢力である
  武士の心を養い鍛えることから、鎌倉五山京都五山をはじめ大きな勢力
  を誇った。
   江戸時代になってこの宗の別派として黄檗宗が明から伝えられた。これ
  は禅と念仏の融合を図ったもので、中国風の色彩が濃い。

   一方道元は、栄西においてなお天台や密教との妥協がみられたが、全く
  純粋な禅を説き、曹洞宗を開いた。行住座臥がすべて座禅に連なることを
  教えて「只管打坐」を唱えた。

 ● 鎌倉仏教の最後に日蓮宗が現れる。法華経を専修し、本門の本尊・題目・
  戒壇の三大秘法を宗旨として、即身成仏を期するものであるが、日蓮
  教え以外の他の仏教宗派に対して、極めて攻撃的であり。日蓮自体が
  様々な法難に見舞われた。
   現在でも、他の各仏教宗派からは、異端視されており、仏教ではない
  とまで論難されている。日蓮の死後、法華経をどう解釈するかによって
  一致派と勝劣派に別れ、それぞれが又多くの分派が起こっている。

(3)神仏習合
 ・ 仏教伝来からその教えが社会に浸透する過程で、伝統的な神祇信仰
  との融和が図られた。
   すなわち、古代の天皇が、【天皇天津神の子孫とする神話のイデ
  オロギー】と、【東大寺大仏に象徴される仏教による鎮護国家の思想】
  をともに採用したことから、奈良時代以降、神仏関係は次第に緊密化
  し、「神と仏は同じもの」として信仰されていた。
   それ以後明治維新に伴う神仏判然令(廃仏毀釈騒動)がだされるま
  で、1000年以上にわたって神仏習合の概念は継続していたことに
  なる。

 ・ 平安時代に入り、【仏教側】から本地垂迹説(日本の神々は、仏
  や菩薩が姿を変えて到来したもの)が唱えられ、また【神道側】から
  は新本仏迹説(反本地垂迹説ー神こそが本地であり仏は神の姿)も唱
  えられるが、戦国時代に入って天道思想(諸宗一致の思想で、神道
  仏教・儒教の融合)まで現れ、「神」の概念が混沌とし、それを日本人
  はすべて受け入れてきたのである。

(4) 織田信長比叡山焼き討ちと徳川家の檀家制度の康創設
 ・ 仏教の変容に関して欠かせない出来事が、織田信長比叡山焼き討
  ちと徳川幕府の檀家制度を語る必要がある。
 ・ 織田信長以前の仏教は、平安仏教が貴族の帰依と保護を受け、寺院
   が1つの権勢の中心となり、その排他性と独善性に加え、攻撃性も極
   めて先鋭化、その結果、歴史に登場するときは、政治に絡み自己の権
        益を広げるときか防御するときに限る存在でしかなくなった。当然の
        ことながら、民衆の心からは大きく離れていったことは前述した。
   そこに、自らを神と信じた織田信長が、比叡山全山焼き討ちという
        挙にでて、その権威の鼻をへし折っただけではなく、その武力をも壊
        滅させたのである。(さらに一向一揆に対する徹底した虐殺も加わる
        が)

    ・ この寺院の武力解除に関しては、豊臣秀吉の刀狩も大きく寄与して
        いるが、現在の仏教の姿に大きく影響を与えたのは、何といっても徳
  川家の檀家制度の創設である。
   すなわち、寺院を檀家制度という政治的下級機関として組み入れた
  徳川家康である。徳川家康は、宗教の怖ろしさ(一向一揆)を知るだ
  けに、各寺院の糧を与える代わりに、完全にその宗教性を骨抜きにしたの
  である。

 ・ 結果として、現在の仏教は、葬儀仏教に堕すことになったのである
  が、日本人の摩訶不思議な宗教性(上記神仏習合でも述べたように、
  神として何でも受け入れてしまう習性)及び、1000年以上の歴史と合
  わさって、終局的には、日本人の心に奥底に根差し、風俗習慣や思考
  の中に、程度の差はあっても仏教精神はわずかながらに残存することにな
  り、現在に至っている。
   すなわち、四季、季節季節の節目に、自らや家族の安寧や希望等を祈
  る対象だけになり、祈る日本人もその実現をそれほど期待しているわ
  けではない、という現実になっている。