日本人の宗教観・死生観その5

4、私見ー現代から見る神道・仏教ーそれから見える日本人の宗教観

 以上、原始の神道・仏教から、その神道・仏教の現在まで変容を述べてきたが、その変容の過程の中で宗教を考える場合、信仰する側の「救い」を求める希求の強さを忘れてはならないような気がする。

 まず仏教伝来時には、為政者としての国家鎮護の必要性のために、従来の神道よりは遥かに論理性が高い仏教を真剣に望んだのであり、また平安貴族は、一族の繁栄と隆盛のために真剣に仏像に祈りを捧げ、「祈祷を主とする仏教」ということを知り密教に支持が集まり、平安時代末期から鎌倉時代にかけては、末法思想も手伝い、民衆も、生活の苦しさを逃れるために、念仏を唱えれば極楽浄土をにいけるという極めて単純な考え方が太宗を占め、浄土系の仏教が隆盛を極めることになった。

 そこで、分かったことが1つある。
 それは、鎌倉時代以前の仏教は、それが貴族であれ、武士であれ、さらには民衆であれ、切実の「救い」を求めていたのに対して、各宗派は、大なり小なりその「答え」を持って真摯に対応していたことである。
 だからこそ、仏教は、その拡がりこそ大小はあるものの「生き生き」と
し、活気に満ちていたように感じる。

 一方神道は、民衆に支持されることはなく、神仏習合の考え方によりその精神が仏教の中に根差していたにすぎないようである。

 翻って現在の仏教(含む神道)について考えてみると、まず救いを求める側すなわち一般の日本人には「救い」を求める切実感はないようにみえる。この切実感とは「生きるか死ぬか」という切実感をいうのであって、現在では1億総中流といわれるほど生活が安定しており、「生きるか死ぬか」という意味での切実感はないのは確かである。

 一方、各宗派も、このような現実を認識しているのかどうかわからないが、1部の新宗教を除き、新たな布教活動をするとか奉仕活動を積極的にしている宗派はあまり聞いたことがなく、大半の神社・寺院は、仏のように、蓮の上に胡坐をかいているように見える。
 その証拠に、目に付くことは、所得税等無税の恩恵にどっぷりと漬かり、そのメリットを享受するためにも世襲制を固守し、仕事と言えば季節の節目の賽銭稼ぎと寄付金募り、お寺は「葬儀」関係だけ、という姿が、垣間みられるだけである。まさしく大多数の国民の無関心さに胡坐をかいている姿と言えるののではないだろうか。

 ※ 世襲制について
  この住職(あるいは神主)の世襲制ほど不思議なものはない。住職が死ぬとパーマをかけたその奥様が跡を継ぎ、息子には早くから神職系・仏教系の大学に行かせ、息子がいなければ娘にも神職系・仏教系大学を強要するる始末。
おまけに相続関係のごたごたも珍しくない。かの有名な深川八幡宮では、殺人
事件まで起こしている。
 そもそも仏教において妻帯を許していたのは浄土真宗だけではなかったの
か!

 ※ 神社数、寺院数の多さについて
 もっと驚くべきことは、神社数8万1158社、寺院数7万7256寺となっており、これは大手コンビニ3社(セブンイレブン、ローソン、ファミマ
合計5万1136店よりもそれぞれが多いことである。
 これほど多くの施設(しかも無税)が何故必要なのか、と疑念を持つ人は
いないのだろうか!

 ※信者数の多さ

 文化庁の宗教統計調査によると、2016年末時点での神道系団体の信者数は8500万人、仏教系団体の信者数は8800万人、合計1億7300万人となる。日本の人口1憶2600万人を4割以上上回る。
 これは、この調査自体が各神社、寺院、団体の自発的申し出でによるものであること、もう1つは、日本人の宗教とのかかわり方によるものある。
 上述したように、日本では、土着の原始宗教をベースとした神道と、6世紀頃に大陸からもたらされた仏教信仰が交わり、明治政府が神仏分離令を出すまでの1000年以上に渡って「神仏習合」の時代が続いたことによる。
 さらに、もう1つは、神道にも仏教にも明確な入信の儀式はないため、信者としての自覚がないまま、生活様式や季節の行事として人々の生活の中に宗教行事が根付いていることによる。神棚と仏壇がある家が多く、全くそれに違和感はないのである。

 すなわち、信者といってもその大多数は「潜在的信者」であり、熱心的でもないが、それほど無感心でもない、という分類になるのだろうか!これこそが、現在の日本人の宗教観(本質)かも知れない。

 現在、神道・仏教にあえて「救い」を求める日本人は少ない、と思われる。求めるとしては、物質的な救いであれ、精神的な救いであれ、実現されるのを期待するのではなく、神でも仏でも神木でも磐座でもいい、一方的に、祈りさえすれば、本人の気が休まり、それでよい、と考えている宗教である。
それは「宗教」とはいわないのであろう。日本人の「心」そのものなのかもしれない。

5、死生観と辞世の句
(1)死生観

 以上、日本人の宗教観の本質を論じてきたが、それは、神道であれ仏教であれ、日本人の根源に根差した「文化」であり、「心」であると喝破した。
 しかし本稿の目的は、この宗教観に基づく日本人の死生観を探ることであり、ひいては、最終的な自らの死生観の確立にある。なぜなら、死生観、すなわち
「人間が死んだらどうなるか、そこに救いがあるのか、それともないのか?」は宗教の基本的部分に当たるからである。

 ある宗教学者によると、現代人は、「死んだら無になる」と考えるそうで、かくいう小生もそのように考えていた。では、この「死生観」について仏教、神道はどのように考えているのだろう。

 まず仏教では、「死」を見つめることを繰り返し教える。その中身は「無常観」で、その上で、「生死一如(しょうじいちにょ)」という概念を説き、生と死は反対のことではなく、2つであって1つ、1つであって2つ、切っても切り離せない関係にあることを説く。すなわち、死を見つめることが生をみつめることになり、死を解決することが生を解決することになる、と説くのである。
 般若心経の「色即是空、空即是色」もこの類いで、「なるほど」と分かっ
たようになるが、「死をみつめる」ことと「死を解決する」とはどのようなことで、どのような意味を言うのか不明である。結局分かったようで分からないのが本音である。

 一方、神道では、死んだら「神」のもとに帰るというが、なぜか、「死」は「穢れ」として最も忌み嫌われている。現在でも葬儀に参列して帰ると塩で清めるのがその証左で。現在の差別の根源ともいわれている代物である。

 しかし、森、林、草花、河、石などあらゆる自然界に神々が宿り人間に恵みを与えることもあれば災害をももたらすという日本の土着の信仰(神道)は、外来の仏教から大きな影響を受け(神仏習合)で、神々もまた仏教化していったのである。

 そして仏教の「無常観」も、元々は、「この地上に永遠なるものは1つも存在しない、形あるものは必ず滅びる、人はやがて死ぬ」という諦念的概念から、ここに、日本的風土(自然界には、四季の巡りによる、蘇りと循環の無常の息遣い)が加味されることになる。
 具体的にいえば、「春には花が咲き、秋には紅葉と落ち葉、そして冬になって木枯らしが吹く、しかし年を越せば春が来る。照日、曇る日が循環し、それが生きる支えになっていく。そこに粘り強く、柔らかな忍耐力が芽生え、やがて近づいてくる死の影、死の訪れを静かに受容して、土に帰る、自然に帰一する」という自然との一体感、神、仏との一体感が醸成されたのである。
死の「不安」よりも「安寧観」が生まれる、という「無常観」に変容していったといえそうだ。
 だからこそ、神道で、「死んだら神になる=自然に帰る」から仏教の「死んだら仏になる」という言葉が生まれたのであり、日本人の大半は、そのように信じている所以である。


(2) 辞世の句
 ここまで神道・仏教を学習してきたが、では一体、過去の日本人は、死というものをどのように感じていたかを探ってみる。
 それには、過去の有名人の辞世の句を採り上げることにする。なぜなら、「辞世」とは、そもそもこの世に別れを告げることを言い、そこから人がこの世を去る時に読む漢詩等をいうので、死と向き合う人の心が最も端的に表れると考えたからである。

 まず目立つのは、人生のはかなさを謳った句が多いことである。
「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一杯の酒」 
                      上杉謙信(享年48歳)
「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは夢のまた夢」
                      豊臣秀吉(享年62歳)
「越し方は 一夜ばかりの心地して 八十路あまりの夢をみしかな」
                      貝原益軒(享年84歳)
 48歳で志半ばで逝った上杉謙信、功成り名を遂げたものの老醜をさらけ出し1代で豊臣家を滅亡させた豊臣秀吉、山あり谷ありの人生を味わい尽くし当時としては稀に見る長寿であった貝原益軒、それぞれの人生は異なるものの、全く同様の趣旨の辞世の句を作っているのは興味深い。
 いざ死に直面した時には、どのような人生を送って居ようとも、本人にとっては「短い」「はかない」ものと感じるのだろう。


 次に、「色男」の代名詞でもある人物で、平城天皇の孫、桓武天皇の曾孫である在原業平(享年55歳)の歌がある。
「遂に行く 道とはかねて聞きしかど 昨日今日とは思わざりしに」
 何時かは死ぬと分かってはいたが、今とは!という感慨が、人としての自然な感情の発露であろうことは容易に想像でき、小生も極めて自然に納得した句である。

 そして最後に、小生の今の心境を表すのに最も適当な辞世の句を見つけた。
それは無名の町奉行所与力神沢氏の
「辞世とは 即迷い 唯死なん」
(辞世とはその場における迷いに過ぎず、死が来れば、それに従うだけのことではないか)
という句である。

「何も、死について考え思い悩む必要はない、ただ黙ってその時を迎えればいい」

ということなのだろう、と結論付けた。