還暦と大還暦
還暦で赤いブレザー(ちゃんちゃんこも着ました)着て早6年がたちました。いよいよ後期高齢に向けて、新幹線並みにつっぱしるのか、とため息をついていました。ところが、その6年前に、還暦に当たって、次のように機関紙に掲載していました。
「 [雑感その1―現代の還暦(60歳)を考える]
1、還暦を迎えた感慨
<1949年(昭和24年)7月28日木曜日という日>
終戦後4年の生まれで、第一次ベビーブームの真っ最中、いわゆる団塊の世代。
が今も残る関西弁のルーツ。従って関西弁と言うよりは河内弁。「われ、何言ってけつかんね
ん!」
世情は、戦後の食糧不足もやっと解消に向かい、海外からの引揚者もまだ続いているものの戦後
の一段落といった時代。ただ翌年には朝鮮戦争が勃発し、未曾有の好景気に見舞われる前段階と
いう、比較的落ち着いた中にも次の激動を迎える不気味な静かさが漂っていた時期といえるのか
も!
<60歳になった実感>
長い付き合いの友人達、さらには職場(梁山泊)の仲間たちが私の還暦を祝ってくれた。
赤い「ちゃんちゃこ」をレンタル(結構高いので驚き)して着せてくれたり、あるいは「ちゃん
袖を通す前にある人がもらった本物の選手用のものだったのです)を着させてもらい、かつ哺乳
瓶でお酒を飲まされ、まさしく子供還りの気分。
更に、カラオケで歌っている写真をそのままケーキにして祝ってくれたのにはビックリ!(下記
写真ご参照)
がかりの仕事。同世代の人たちが文句1つ言わずに黙々と待っている姿が印象的。お陰さまで、
見ず知らずの同世代の方々との茶飲み話は結構楽しめた。
もう1つの特徴は、昔の仲間で飲む機会もめっきり減ったものの、その時には、必ず誰かが健康
か孫の話に持ち出し、それに花が咲くようになったことである。
- 等々、じわじわと還暦の実感が湧いてきた今日この頃です。一昔前は「人生、50年」といわれ、私もすでに余計の人生10年生きてきたことになる。そこで、60歳前後で亡くなった昔の著名人は、10年も余計に生きているのだからきっと人生に満足して亡くなっただろうと想像し、還暦前後で死去した著名人を調べ、最後の言葉からその心情を探ってみた。<還暦前後で死去した著名人と最後の言葉>
- 「なに、負けるものか、負けないぞ」
- 最後の発作時には、「一度安心したせいか、もう打ち勝つ気力もない。駄目だ、駄目だよ」「まだ、生きていたい」という悔しさが滲みでているように感じるが-------。
- ★ 小津安二郎(1912~1962)
- 映画監督。がん。昭和38年12月12日がんセンターの病院で死去。それも還暦の誕生日
- (60歳)であった。「何も悪いことした覚えがないのに、どうしてこんな病気にかかったんだろう」「右足がどっかに行っちゃったのかね。ベッドの下に落っこちているんじゃないかね」がんという不治の病に罹患した無念さが伺える。
ご存知の天下人。享年62歳「露と落ち露と消えにし我が身かな 浪速のことは夢のまた夢」(自分は露のようにこの世に生まれ、露のようにはかなく消えていく。大阪城での栄華- の数々も、結局は夢の中の夢のようだったなあ)いかにも達観したような辞世の句であるが、ただ、ご存じのとおり、息子秀頼に対する盲愛
- とこの世の未練に満ち満ちていたのが現実で、この歳で死ぬ無念さとこの世の未練が交錯
- していたのであろう。
見舞いの島崎藤村が「この世を辞していくとなるとどんな気がするかね」との質問に対し「何しろ、誰も知らない暗い所に行くのだから、なかなか単純な気持ちのものじゃない」しかし見舞いに来て「死ぬ気持は?」と聞く島崎藤村も凄い人ですね!!
★ ベートーヴェン(1770