熟年の生きる価値第3回

第二章  第二の人生の旅立ち
 
第一節 運命の扉
 
「支店長、人事部長からお電話です」
と副支店長からの電話。
「分かった。代わってくれ」
と答えたものの、
『この時期に何かな。部下行員の人事異動も終わったばかりだし、自分もこの店の在任は
まだ一年半、異動には早すぎるのに』
と思いながら、
「もしもし、秋月ですが」
「おう、支店長お久しぶり」
電話に出たのは、同期入行で既に取締役になっている人事部長の西の野太い声が返って
きた。
「支店の調子はいいみたいだな。大阪での色々な活躍があっちこっちから聞こえてくる
よ」
「どうせろくでもない話だろうが。
ところでお忙しい人事部長が旧交を温めるためにわざわざ電話してきた訳じゃ
ないだろう」
「まあな。いや時間があったら、本店に寄ってもらいたいと思ってね。ちょっと話が

あるんだ」

「東京に行くのは全然やぶさかではないが、何の話だ」
そこでちょっと西は口籠もるように
「ちょっと電話では話しにくいので、会って話をするよ」
と、一旦はその内容を話すのを拒否したが、
「そんな勿体ぶらずに話してくれよ。気になって夜も寝むれないじゃないか」
と秋月が問い詰めると、
「お前が『夜も寝むれない』玉かよ」
といいながら、意を決したように
「ふーむ、まあお前だからいいか。いや実は、是非君に来てもらいたいという会社があって、条件も結構いいんだよ。もちろん君の意向次第だが、」
「会社の名は?」
「それは会ってから詳しく話すよ。そんなに急がないけどとにかく一度東京に出てきて
くれ」
ということで電話は切れた。人事部長らしく、口が堅いまま、最後までその企業名は明かさなかった。
 
 この歳での企業への出向は、もう銀行には戻らない『一方通行』の出向を意味しており、
 実質、銀行定年と同じ意味合いを持つ。
  『いつかは来るも』”
とは思っていたが、秋月はまだ52歳。本人は“ひょっとしたら取締役の芽も”と淡い期待もあっただけにこの電話はまさしく「寝耳に水」とも「晴天の霹靂」でもあり、二日酔いも完全に覚めてしまった。
 
『いよいよ来たか。チョット早いような気がするが------
まあ、順番だから仕方がないか------
とにかく早く上京してどのような企業なのか知ったうえで判断しよう--------
イヤなら断ってもいいんだから---------
と一生懸命、自分を落ち着かせようとする秋月であった。
秋月の頭の中では、同期で取締役が選出され始めると、その同期の連中は、順番に銀行の外に出されることは分かっていた。
銀行で、六〇歳定年まで在籍するのは稀なのである。
そのように割り切っているつもりだが、いざ実際にその手の話が現実に起こってくると、
全身の脱力感はどうしようもなく、結局その日は、取引先の夜の接待をも断っていた。
 
夕方、秋月は、いつもより早い刻限に支店の裏口から1人フラッと銀行を出た。
まっすぐ帰る気にもならず、何となく、支店に隣接する大阪の盛り場「北の新地」の方に
歩き出していた。
 
第二節 天と地の痛飲
 
「いらっしゃい! あらっ、こんな早い時間珍しいわね!」
江戸小紋の着物をきりっと着こなしているママさんが迎えてくれた。
 「難しい顔をあいてるのね! 
何か良くないことがあったみたい。秋月さんはすぐ顔に出やはるから分かりやすいわ。」
 「そうかな。別に何もないけど。」
と秋月は言って、いつものカウンターの右端の定席としている椅子に腰を下ろした。
 「ダメダメ。あなたの顔はそうはいっていないわ。
まっ、いいか!今日は思いっきり飲みましょ。付き合ったげる!」
と秋月の気分を癒すためか、いつもとは違う剽軽な言葉づかいでママが応じた。
時間が早いせいかまだホステスの女の子たちは出勤しておらず、ママ自身がそそくさと付きだしと飲み物の準備をはじめた。
 「さあ、あなたの好きなバーボンのロック!わたしはビール。今日は私が奢るからジャン
ジャンやろう。」
と秋月に気を遣ってはしゃいでくれた。
 「奢りはありがたいが、落ち込んでいる  理由をきかないのかね。」
 「私が聞いたらあんたは余計にしゃべらん人や。本当に聞いて欲しいんやったら、あんたが勝手に話し出すんとちゃう。今は何も聞きまへん」
 
 このお店の名前は『りんどう』といい、銀行の先輩から
「銀行員はめったに来ないクラブで気を使う必要がないこと、それに一番いいのは、カラオケがないから、静かでいいよ」
と紹介されて通いだしたお店である。
それでも『大阪の北の新地のど真ん中にあるから結構高いのでは』と危惧していたが、女の子が2~3人と小規模で、勘定も比較的リーゾナブルなことから、秋月は、どちらかというとお客様との接待の場として使うよりプライベートな『行きつけのお店』として、「便利に」かつ「頻繁に」通っていた。
 
ママの名は白川奈美。
決して振り返るような美人ではないが、着物を着たときの艶っぽい中にキリッとした筋の
通った品格があり、その対応も、お客に擦り寄るのでもなく、それでいて突き放すのでは
ないという絶妙な接待ぶりを秋月は好んだのである。
 
秋月は、彼女の術中に嵌ったようで癪にさわるように思えたが、結局、今日の出来事をママに話していた。
 話を黙って聞き終えて、彼女は、こんなことを言って秋月を慰めた。
 「なあんだ、そんなこと。
あんた! 死ぬまで銀行員でいたいの? いつかは辞めて第2の人生を歩むんでしょ。
それならなにもウジウジ考えることあらへん。
四~五年の違いなんて生きていく人生の中では 関係あらへんのとちがう。

 それよりも、やっとこれからおもしろい人生が過ごせるんとちゃうのん。 

 堅苦しい“銀行員”の仮面を被っていく必要のない人生って、最高に面白いと思うわ。 

 だって、私と浮気しても、銀行の評価を気にする必要はこなくなるから最高やん。

 しっかり、頑張ってや!」
 
結局この日も秋月は、ママさんに叱咤激されながら看板まで痛飲することになった。
 
昨日の京都のお酒と今日の新地のお酒。同じ二日酔いの原因といっても、まさしく天国と
地獄の違いがあるお酒であった。