熟年の生きる価値第2回

第一章  京都の夜
 
秋月の二日酔いの原因は、前夜、お客様の接待を受け、京都・宮川町のお茶屋で遊んだ

ことにある。

(宮川町は、祇園先斗町と並ぶ花街で、祇園の「都おどり」に対して「京おどり」と

して有名)

特に、そのお茶屋で、それも話を聞くだけで1回も経験したことのない、本当の「お茶屋

び」にあった。

 
京都での接待は、秋月の立場上、何回も受けている。
しかし、それはお茶屋の舞台で、数人の芸妓が踊りを披露し、そのあと儀礼的にお酌を

してくれ、他愛無い話をするだけであった。

秋月は、今回の接待もこれと同様で、銀座や大阪の新地のクラブとそれほど変わったと

ころはないものと考えていた。

 
実は、今回の京都の遊びは、最初こそこれらの遊びと同様で、まず、お座敷の舞台の
上で、一八歳、芸名を雛菊という舞妓と、芸名「千代菊」という三〇歳近い芸妓を紹介

してもらい、華麗な踊りを堪能した。

ただ、この千代菊の踊りは、踊りというものを全く知らない秋月でも『流石』と唸らせ、
八頭身以上のスタイルの良さは、深みのある真っ青の着物に映え、その長い裾を引き
ずって背をそらし、振り返った姿は今でも秋月の瞼に残っている。そうあの切手にある

「見返り美人」そのものであった。

そしてこの踊りの後に、二人からお酌を受け、それはそれなりに、秋月は充分満足して

いたのである。

 
ところが、実はこれが幕開きであった。
「さあ、そろそろお開きかな。」
と秋月思っていたら、急にお茶屋の女将さんが座敷に入ってきて、
「この子たち、もう後の座敷がないの。最後まで付き合ってあげて」
と秋月を接待してくれた取引先の社長に甘えた次第。
子供のころから、先代の社長である親父さんに連れてこられ、このお茶屋で遊んでいたと
いう社長は、
「しゃないなあ!」
と鷹揚に答えたものだった。
 
さあ、「これが本当の意味でのお座敷遊びではないか」と秋月が考えた宴会の始まり
であった。
 
舞妓雛菊、芸妓千代菊をはじめ三味線を引く地方(ジカタ)の芸妓さん、さらには舞妓
デビュー前の16歳の見習い芸妓、最後にはお茶屋の女将さんとも交えた6名と秋月、
副支店長そして社長の3名、併せて9名の私的なお座敷遊びになったのである。
その中身とは、それぞれの職位、立場を離れて、お互いが「仮面」を拭い取った

「ふれあいの場」だったのである。

 
具体的にいうと、全員が1つの輪になり、ジャンケンをして勝負を決めるいわゆる子供の
遊びに近い非常に単純・素朴な遊びであったが、罰ゲームに「粋」と「艶」を交えた様々

工夫が凝らされており、秋月は自分でも何故こんなに夢中になったのか不思議な感覚を

味わった。
今でも、『一見さんお断り』を厳格に守っている京都の花街で、お金を払う人と芸を売る
人という立場を離れた、この和気藹々の遊びこそが本当の「お座敷遊び」の真髄が
詰まっている、と考えた秋月にとっては、有頂天になっても致し方なく、いつの間にか

飲み過ぎて、気付かないうちに、時計は大きく一二時は廻っていた。

 
実はこの「お座敷遊び」には後日談がある。
女将さんの話によると、
その私的ともいえる「お座敷遊び」に地方(ジカタ)の芸妓や女将さん、さらには舞妓
見習いの子まで一緒になって遊びに興じたのは、そのお茶屋の女将にとっても「初めての
ことだった」そうだ。秋月たちが帰った後も、社長を交えて、本当に楽しかったと

しばらく話が尽きなかったようだ。

さらにもっと驚いたのは、そこで一緒に遊んだ八十歳近い三味線引きの元芸妓(いわゆる
地方)さんは、実は宮川町では人間国宝に匹敵する三味線引きの名手だそうで、その

お座敷のすぐ後に亡くなったのこと。

結局は、私たちの「お座敷遊び」がその老芸妓の最後のお座敷になったのだそうで、
「あの人が大声で笑って、一緒にお座敷遊びに加わったのは私もビックリした」
とこれも女将の述懐であった。
 
この話を聞くにつけ、なんとも印象的な京都の夜であった。
 
そこまで回想に耽っていた秋月は、支店長室のデスクの電話の音に現実に引き戻された。