熟年の生きる価値第4回

第二章 銀行から化粧品業界へ
 
第一節 化粧品業界への扉
 
「このブランド導入の話は、間をおかなく詰めたほうがいいよね。どう思う、秋月さん」
「それは絶対ですよ。すぐに最終の詰めに行ったほうが先方も気を良くします。なにしろ先方は基本的には個人企業に近い企業なので、いつ気が変わってもおかしくはありませんから」
「よし先方が都合つき次第アメリカへ飛ぼう。ところで、誰が行けばいいのかな?」
「はぁー、最終契約になるんですから社 長が行かれるんでしょう」
「私は行かないよ。」
と、さもそれは当然のことと言わんばかりに社長は即答し、
「専務はパスポートを持っていないし--------。ここはこの案件をここまで詰めた責任者の秋月さんが一番の適任ですね。」
「いや、私は英語が全く喋れませんし-------。」
「そんなこと関係ないと思うよ。英語の達者な鈴木君を連れて行けばいいし、アメリカの弁護士も日本語が喋れるらしいから。」
 
 これが、秋月と西人事部長が薦めた会社の社長との会話である
 
そう、秋月の第二の人生の出発は化粧品会社であった。
当初、この話があった時、銀行の友人にもさらには妻にまで、
「秋月には最も似つかわしくない業界である」
といわれ続けてきた。
しかし、化粧品は素人だが、「是非に」と見込まれたからには「意気に感ず」に

感じなければ、と秋月はこの業界に飛び込んだのである。

数カ月経ち、本人は意外と水に合っているみたいと思っていた矢先の会話である。
 
この化粧品会社は、実は、秋月が支店長をしていた店舗の取引先であった。
銀行では、直接取引をしていた当事者はその取引先には行かないという不文律がある。
しかし、この社長は、かって秋月と同じ銀行に勤めていた関係で、銀行本部の連中とも
親しく、社長が人事部に直接行って、「是非欲しい人物」として依頼したとのことで
あった。
 
この会社を紹介すると、大阪に本拠を置く会社で、当代で二代目の同族会社である。
化粧品業界は、大手の資生堂はじめ、大企業から中堅・零細まで群雄割拠の態を為して

いるが、この会社は、自社で生産工場をもっている製販一体の化粧品中堅会社であった。

本社ビル、自社工場、研究所まで備えている企業は珍しく、堅実な、企業としてその

評判は業界に定着している数少ない優良企業であった。

 
この会社の発展の原動力となったのが、「やり手」と言われる二代目社長である
先代が家業として始めた化粧品会社を企業レベルにまで育て上げ、さらに静岡県に物流倉庫も兼ねた工場を建設し、さらに大阪の北に、ひときわ目立つ意匠を施した二一階建ての自社本社ビルを建設した。
 
この社長の気質は、二代目社長というよりは、創業者のように新しいものに対する好奇心は極めて旺盛で、何事にも興味を持って事に当たる性格である。
その反面、「石橋を叩いても渡らない」という極めて慎重居士の性格を併せ持ち、
「社長は、これを本当にやりたいのか?」
と社員が疑うほど、きめ細かく詰めていき、納得がいかない限り、何度でも説明を
求める。
 秋月も当初は面食らったことが多々あったが、自ら支店長を務めたお店の取引先でもあり、業績の中身や社長の性格はある程度熟知していたこと、また、社長自身が銀行の

 先輩で、三歳しか歳が違わないことから、徐々に慣れていき、

 現在では、「取締役経営企画室長」の肩書で、第二の人生を順調に歩み始めたのである。
 
第二節 新しい仲間
 
 秋月が社長からアメリカ行きを命ぜられ、自分の経営企画室の席に戻ると部下の全員がまだ帰らずに待っていた。
 「アメリカへは室長が行くんですって!
 頼みましたよ。
何しろ日本にはじめての美容ジャンル。是非我が社でやりたいということから、ここに
居る全員が6ヵ月間苦労してきた案件ですからね。
明日、弁護士事務所に行って英文の契約書原案を急がせてきます。」
私の片腕となっている副室長の山野が言った。
アメリカのロサンゼルスに事務所がある当社が依頼する弁護士に、早急にコンタクトを
とります。どのような内容の契約であり、どこが問題でかつ当社が譲れない部分はどこか、事前の打ち合わせが必要ですね。その時間も取っておきます。」
英語が流暢で海外関係を一手に引き受け、今回も同行してくれる鈴木が言った。
「この事業の国内での事業シュミレーションをもう一回やり直して検証してみますわ。
何しろ日本では始めての事業ですから、慎重に!慎重に!」
四十歳で初めての子供を生み、0歳児を保育園に預けても美容の仕事が好きという中村香織が言った。
美人であることは当然としても、スタイル抜群で10歳は若くえる彼女であるが、頭の良さと好奇心の旺盛さには頭が下がるキャリアウーマンである。
「今までの本件に関する会議内容を整理して、決定事項と課題を取り出し、アメリカでの交渉時の参考になるメモを作りますよ」
副室長山野の直属の部下であり、一番の若手である山城が元気よく言った。
「じゃ私は、社長が絶対譲れないという2項目をどのように言えば先方が納得するか枠組みを考えてみます」
中国・上海の工場進出案件にかかりきりの門田まで言い出した。
 
時計はすでに夜の10時を大きく廻っている。彼らは秋月が申し訳ないと思うくらい時間を気にせず、すぐにでも仕事に入る気配を見せていた。
 
「よし、山野君と山城君は英文原案を急がせると同時に明後日までに社長決済が取れる
 ように行動してください。
中村君はこの美容ジャンルの国内動向をもう一度整理し、事業化するためのポイントを
 一覧表にしてください。
鈴木君は先方弁護士に連絡の上、打合せ時間を十分に確保するように留意して
ください。
門田君は忙しくて申し訳ないが、過去この問題となっている2項目がどのように取り
扱われているかを調べてもらえますか。
ただもう時間が時間なので本日はこれでおしまい。中村君をのぞいて『野外打ち合わ
せ』に入りましょう」
と秋月は宣言した。
「室長。私は何故除かれるのですか?」
「えっ! 生まれたばかりの子供さんがいるだろう」
「室長、気を遣われるのならもっと早い時間にお願いします。今から家へ帰っても主人
 がもう寝かしています。いえ、主人もきっと一緒に寝ていますよ」
「でも授乳は?」
「母乳でもミルクでも両方いけるようにちゃんと育てています」
「分かった、分かった。ただ、適当に帰ってくれよ」
「そんなのは当たり前です。室長や副室 長の『飲んだくれ』に最後まで付き合う人は
 誰もいませんよ!」
 
中村女史との一連の会話のあと、全員がガード下の行きつけの居酒屋に集合した。
半年もかけてきた案件であり、かつ日本で初めての案件ということで、
”やっとここまで漕ぎ着けたか“
という安堵感と高揚感が全員を包み込み、大きな盛り上がりをみせた夜だった。
秋月は1人1人の顔を見ながら幸福感に包まれていた。
彼女・彼らが、秋月の第2の人生の仲間たちである。