熟年の生きる価値第6回

 第3節 事前打ち合わせ
 
「いや、この契約書原案には大きな2つの問題があります。一つはアジアにおける相手方の拡販に対して、あなたの会社の承認が必要ということです。それからもう一つは、先方が本契約書を解約する権利をあなたの会社が制限していることです。」
 ロバート弁護士は、秋月から本契約に関する経緯と、会社の希望を聞いたうえで“ずばり”と指摘した。
 「それは困ります。その二点はうちの命の部分、生命線です。」
 と秋月は答えたものの、実はこの二点は、案件を詰める段階でも“ちょっとやりすぎかな”と思っていた部分であった。
社長に
「ちょっと、我を通しすぎでは!」
と尋ねたが、
「これくらいは当然ですよ」
と平然と答えていた、いわゆる“曰くつき”のものであった。
「それは分かりますが、この条項はいかにもゴリ押しという感じです。先方のオーナーより、先方の弁護士が絶対認めないと思いますよ」
 「それじゃ、私が直接、向こうのオーナーを説得しますよ」
 「ダメですよ。アメリカの弁護士は自分達の優秀・有能性を雇い主に誇示しなければ
なりませんので、いかにオーナーの企業が不利になるかを説いてオーナーを説得
します。日本のように会社の意向どおりには動きませんよ」
 「でもオーナーが“いい”と言ったらそれでお終いでしょう。」
 「その認識は危ないと思います。明日からの協議では出来る限り、この原案どおりで
頑張りますが、これを納得させるのに、相当時間がかかると覚悟しておいたほう
がいいでしょう!」
 
 若手の敏腕弁護士と聞いていた割には、心もとない話であった。
“大丈夫かな”
との若干の危惧を持ちながら、この日の打ち合わせは、何とか夜の8時過ぎに終了した。
ロバート弁護士と明日からの健闘を誓って握手で別れ、事務所を出たのはもう夜の9時
を廻っていた。
 
「鈴木君、疲れたね!飛行機の13時間のすぐ後の6時間の打ち合わせ、さすがのタフな私でもグッタリだよ。
そこで、着いて早々で節操がないと言われそうだが、冷たいビールをキューと一杯いきたいね」
と、酒すきの秋月が誘ってみた。
 「いいですよ。前途多難ですが、お互いの激励会ですね」
 「その通り。確かこの事務所来る途中に一軒、居酒屋みたいな提灯がかかっているところがあったよな!」
 「さすがですね。ちゃんと看るところは見ておられる。」
 「えっ、君もみていたのか」
 「当然ですよ。秋月室長の部下なんですから」
というわけで、2人は、その赤提灯の看板を探しながら、ホテルへ向かって歩き出した。
 
 第4節 最初の夜
 
 その赤提灯のお店はすぐに見つかった。
ビバリーヒルズの一角にある「居酒屋」的小料理屋で、その名も「小紫」と漢字で書かれた暖簾。
 これは期待できると入口のドア(格子戸ではない)を開けると、大きなカウンターが10席ほどと小揚りがあり、洒落た内装と相まって、日本の小料理屋に入った錯覚を覚えた。
 
 日本人と思われる女将さんと東洋系の板さん一人、秋月たちを迎えてくれた。
 「いらっしゃいませ!」
と明るい女将さんの声が響き、
 「毎度、どうも!」
と、なぜか東洋系板さんも、きれいな日本語で唱和する。
 この雰囲気といい、値段といい、日本の居酒屋だ。
 
 「お客さん、御仕事でこちらに?」
と女将さんがおしぼりを差し出しながら秋月に聞いてきた。
 「そうです。とにかくまず生ビールをください」
と秋月はせっかちに注文し、すぐに二人は、今後の健闘を誓って乾杯した。
 
 「お客さんは、芸能関係の方ではないですね」
 「そうですが、やっぱりビバリーヒルズだけにそういう関係の方が多いみたいですね。ところで、僕たちは何に見える?」
 「何か、堅そうな御仕事みたい」
 「えっ、なぜ?」
 「何となくね。そちらの方はメガネなど掛けられて、真面目そう」
 「じゃ、僕は?」
 「正体不明って感じね。堅そうで、それでいて意外と洒脱なところも見えるので、分からないわ」
と、なかなかの美形の女将がほほ笑んだ・
 堅そうと言われたのは、前職の銀行員の雰囲気を未だに残しているのかな、と秋月は
 思いながら、
 「いや、実は、化粧品会社に勤めていて、業界の事情調査に来たんですよ」
 「あら、そうですか。でも何か違うみたい! これからの健闘を誓ってお二人で乾杯しているところをみると、もっと大事なお仕事みたいですね。お二人とも戦闘モードだったですよ」
 さすがに、見るところは良く見ているな、
と感心しながら、
 「まあ、そういうことにしといてください。事が成就した暁には、お知らせを兼ねて、ここで祝勝会をしますから」
と秋月は答えていた・
 
 付だしから始り、一品料理を板さんが手際よく出してくれ、なかなかの味わいであった。
その後、他のお客が来なかったこともあり、4人で結構話が弾んだが、明日からのこともあり、客が入ってきたのを汐に、早々と引き上げることにした。
 

 女将さんは、ドアまで秋月たちを見送りに来て、

 「必ず、祝勝会は来てくださいね!絶対ですよ」

 と秋月の耳元で囁いた。


 秋月も、姉妹2人で日本から離れ、この地に生活の本拠を求めた女将さんには興味を覚えており、

 「約束しますよ」

 と応えていた。


第4章 交渉本番

 

 第1節 契約締結交渉

 

「何を言ってるんですか。

その件はあなた方が一旦了解した問題ではないですか!

それを今さら蒸し返すとは!

あなた方弁護士がこの契約をご破算にすることになるんですよ。

その責任をあなた方は取れるのですか?」

秋月は、大声で怒鳴り返していた。それもいきなり日本語で!

 

相手方の弁護士事務所があるビバリーヒルズでの交渉も3日目に入り、提携に関する約の詰めも最終段階に入っていた、その矢先の出来事であった。

 

「分かりました。相違点はその一条項のみですね。他の条項でまた議論を蒸し返すことはないですね!」

「はいありません。昨日、すべてをチェックし直して、この条項だけは譲れないという結論に達したのです」

「分かりました。それじゃ、私が今からオーナーに会いに行き、この件について了解を取り付けてきます。それでオーナーが了解したらあなた方も納得しますね」

「いや、本件については私たち弁護士に任されていますので、私たちの言うことがオーナーの言うことです」

「それではラチがあかないから、直に(じかに)オーナーに会って確かめてみると提案しているのです。そのような話を聞くと余計にあなた方がこの契約を潰そうとしているように思えます。」

「そんなことはありません。私たちの雇い主が不利にならないようにするのが我々の仕事です。契約を潰そうなんて全く思っていません」

「そうはおっしゃいますが、あなた方は一日目に了解した事項を、それではやっぱりダメだと蒸し返しているじゃないですか!」

「一日目は“よかろう”と思いましたが、全体をみて討議し、この条項はやっぱり譲れないという結論に達したのです。これは合理的な判断です」

この言葉を聞いて、秋月は激高した。

「何! 合理的だと! 一旦合意したことを蒸し返すことの、どこに合理性があるんですか。あなた方がどのように考えようと、結果としてあなた方はこの契約を潰そうとしているしか考えられないと私は言っているんだ!」

この言葉もまた、頭に血がのぼっていたのか、通訳なしの日本語で秋月は怒鳴っていた。

 

このとき隣に座っていたロバート弁護士が

「秋月さん、ちょっとここで別室にいきませんか!」

と合図を送ってきた。続けて相手方の弁護士にここで小休止する旨を伝えて、秋月を会議の場から引っ張りだした。

 

「秋月さん、怒ったら負けですよ。落ち着いてください」

とロバート弁護士が、控室に落ち着くなり声をかけてきた。

「そうですよ!室長がいきなり席を立つんじゃないかとヒヤヒヤしましたよ」

と鈴木もため息をついて呟いた。

 

 「いやー 悪い!悪い! そんなに興奮はしていないよ。最初は、本当にカッと

なってしまったが、後の方は、若干ワザとしていたことだよ。相手さんがこの態度を

みて、考え方を変えるんじゃないかと思ってね。

ちょっと甘かったかな!」

 とニヤリとしてみせた秋月であるが、

「でもこのままでは前へ進めないな。何とか打開策を考えない限り、たとえ明日に交渉を延ばしても意味がないね」

「と言っても室長、この条項は譲歩できますか? やっぱり、初日にロバートさんが指摘した二つのうちの一つ、『提携契約の解除権の制限』が引っかかりましたね」

 「いや、ここでの譲歩は一切できないね。社長が一番拘っていた条項だからね」

 「でも室長は、当初“ちょっとやりすぎでは”と社長におっしゃっていたじゃない

ですか」

 「その時はそう思ったが、一旦引き受けたからには、それを通すのが使命だからね」

 

 それからしばらく、三人が三様の思いに耽り沈黙が続いた。

 秋月は秋月で、このプロジェクトに係わってきた一人一人の部下達の顔を思い浮かべていたのだ。