熟年の生きる価値第7回

第2節 経緯
 
 そもそもこのプロジェクトは、あの美しい中村女史の6カ月前の発案が発端であった。
 「この分野は全く日本にない美容分野で、反響は大きく絶対に受け入れられると思い
ます。アメリカではこの美容分野は、特殊なものではなく常識になっているくらい
ですから!」
 そのときの中村女史のキラキラと輝いていた眼を秋月は今でも覚えている。
 
中村女史の好奇心の旺盛さは物凄く、
美容に関係があるものがあればすぐに買って試してみるし、珍しいエステが登場すれば、場所がどこにあろうと、出掛けて経験しなければ気がすまない性質(たち)である。
 
ある時、社長室に秋月と彼女が呼ばれ、
「こんなおもしろいものが雑誌に載っているんだけれど、検討してみる価値はないかね!」
と指摘を受けたとき
「ああ、それはもう古いです。私も既に経験しましたけれど、頭が痛いだけで、何の効果も有りませんでした」
と間髪を入れず彼女が答えた。
「さすが!」
と思わず叫んでしまったほど、彼女の好奇心の強さとそれに裏付けられたフットワークの良さには、脱帽した記憶がある。
彼女の仕事振り、0歳時の子供を抱えているとは思えないほど(家庭は大丈夫かこちらが心配になるほど)時間に関係なく、いつも楽しそうに仕事をしている根源は、この好奇心と「本当に化粧品、美容が大好き」という意識がなせる業ということがよく理解できた。
一緒に働いている仲間たちに、化粧品事業に携わる楽しさをいつも教えてくれる存在であった。
その彼女が、どこで情報を取ったのか不明であるが、部内の新規事業分野の会議で、この
ブランドを紹介したのである。
 
当初の部内あるいは社内の反応は芳しくなく、部員をはじめ役員の連中も「何、それ!」という消極的な雰囲気が全体を覆っていた。
 秋月も例外ではなく、化粧品業界はよく分からないものの、損益見通しが全く読めず「無理」と判断していた一人でもあった。
 ところが急遽、新しいものに対する好奇心においては中村女史をも凌ぐ(と秋月は
思っている)オーナーの一言
「おもしろそうじゃない。探ってみる価値はあるね!」
という言葉で、このプロジェクトが始まり、経営企画室全員が走り廻ることになったのである。
 
「それでは、ヒアリングになっていないだろ」
「そうなんですが、百貨店サイドでも未知の分野で答えようがないみたいです」
と困惑の表情で答える山城。
「それでも何らかの感触を掴んでくるのが、ヒアリングするものの腕だろ! やり直しだね」
どうしようという顔をする山城に中村女史が
「私も一緒に行きます。これがどんなものかは私が1番知っていますから、もう1度詳しく百貨店の人に話してみます。
山城さん、さあ行きましょう!」
中村女史に腕を引っ張られながら出掛けてった山城の姿が思い出される。
 
「親しい雑誌社にヒアリングしていますが、この分野に詳しい人は少なくて、なかなか
適当な人を捕まえることができません。もう少し時間をください」
と報告する門田に
「おい、早くしてくれないと採算の前提の絵が描けないよ。何とか今週中にあげて
ほしいな」
とぼやきながらも、優しい目をしていた山野副室長の顔が出てきた。
「門田君には申し訳ないな。中国の案件も煮詰めなきゃいかん時期と重なって」
と慰める秋月であるが、
「少々身体にはこたえますが、忙しい方が“やってる”という実感があって“ヤリ
ガイ”がありますよ」
と元気よく答えてくれた門田の大柄な姿も浮かんできた。
 
「中村女史が“常識”と言っていましたが、ロス、ビバリー、ハリウッドに実際に行っ
てきて、それが事実だと確かめられました。
とくに芸能人では、このブランドが圧倒的な支持を得ているのにはビックリしました。
例えばですね、俳優の----------
2泊3日(1日機中泊)の強行軍で現地調査をしてきた鈴木。
「このブランドは出店していませんが、同業の他のブランドがデパートに出店してい
まして、それなりに人が集まっていました。
ただ問題は-----------
日焼けした顔で、疲れた様子もなく、誇らしげな顔で報告していた鈴木が、今、秋月の横で眼をつむっている。
 
このように、ある者は大手百貨店へのヒアリング、
ある者は業界調査、
ある者は収益見通し、
ある者は現地調査、
またある者は契約書の骨格作りと、
経営企画室の全員がそれぞれの役割をふられたものの、日常業務あるいはその他の案件にも携わっている関係で、彼ら、彼女らの仕事はおのずと毎日深夜までに及ぶことになっていった。
 
特に秋月にとって強烈な印象が残っているのが、経営企画室として、本案件を奨めるべきかどうかを協議した部内会議の場面で、今でも思い出すたびに秋月の瞼が潤んでくる。
 
「色々皆に走り回ってもらったけれど、もう1つハッキリしたものが見えてこないと思うのだが、一応明日の経営会議にどのような形でかけようか?」
と秋月が口火をきった。
「収益のシュミレーションも余りにも前提が多すぎて、ちょっと自信がないです
ね!」
と山野副室長の悩み顔。
「百貨店も“おもしろい”というだけで、今ひとつ突っ込んだ話にならなくてそれ以上進まないで困っているんです」
と山城も今1つ確信がもてない顔。
 
しばらく、全員が沈黙する中で、突然
「大変申し訳ありませんでした。自分なりに自信があったのですが、皆さんにご迷惑をおかけまして!」
と目を潤ませながらポツリと言う中村女史。
「おいおい、それはないよ! 皆これが仕事だし、私が見ていても、結構みんなおも
しろがって飛び回っていたんだから」
と秋月が慰めていた。
 
まさにそのとき
「でも室長、これは確かだという確証もなかなか得られないんですが、それは逆にこれは
ダメだという確証もないということですよね!」
と山野副室長が口火をきってきた。
「そういうことですよ、室長。日本で初めてということは、読めないところがあるのは当然ですし、
またどうしても最後は“賭け”の部分が残るのは、この手の案件として必然じゃないでしょうか!」
と意気込んで発言してきた山城。
「私は、中村さんの美容に対する直感を信じたいですね。というよりも海外の現場をみてきて私も直感ですが、何か起こるような気がするんです。」
と応援する鈴木。
「用心深く、最初、我々が兼任でこのブランドを立上げ、経費を抑えて出発すれば、ある
程度のリスクは軽減され、私は十分に採算が取れると思うんですが、------
と門田まで言い出してきた。
 
「おいおい、結局みんな推進派じゃないか。」
「そうです。室長、やりましょうよ!」
「室長、おもしろいですよ!」
「室長、中村女史の夢は自分達の夢でもあるんですよ!」
「室長、みんなで是非成功させましょうよ!」
 
部内の雰囲気が一挙に転換した。
 
しばらく沈思していた秋月も
「よーし、このブランドを日本に持って来よう。皆の熱意で明日の経営会議を切り抜
けようか!」
「ただ、“やる”と決めたからには失敗は許されないぞ。もっと忙しくなるが覚悟して
おけ!」
と部下達の情熱の渦に巻き込まれて、発言していた。
 
「やった! 室長、室長、時間が遅いですが、ここはやっぱり『ちょっと一杯』のコースですね」
若い山城が大きな声で提案してきた。
「賛成」、「賛成」、「賛成」--------------
 
「皆さん本当にありがとうございました。
本当にうれしいです。最高に今、幸せです」
 とうとうあの美しい中村女史の顔から、大粒の涙がこぼれてきたのに全員が絶句。
「おい中村君、涙は明日の経営会議の後までとっておいたら」
「大丈夫です。この部屋全員が後押ししてくれ、室長が役員を説得してくれると信じ
ていますので、経営会議なんて目じゃないですよ。全然、安心してます。」
中村女史の泣き笑いの顔が、なんとも美しく、3ヶ月経つ今も、鮮明に思い出される出来
事であった。
 
このように、秋月の脳裏に、過去6ヶ月間の部下達の表情、行動などが、走馬灯のように
頭をよぎり、それだけ余計に、
「この案件を是非とも成功に持っていきたい」
「なんとしてでも調印まで漕ぎ着けなければならない」
という決意を新たにした。