熟年の生きる価値第8回

第3節 交渉決着
 
「ロバート弁護士、何とかオーナーの居所は分かりませんかね。どうしても直接オーナーに話してみるしか方法はないと思いますので」
「そうですか、その方法しかないですか。
ただ、先方の弁護士がこのことを知れば『へそを曲げる』可能性がありますね。そうすると余計にこじれることになる可能性もありますよ」
「でも、それ以外の方法でこの局面を打開できる方策はないように思います。この一点に賭けてみましょう」
と秋月は、力強くその決意を披露した。
「分かりました。秋月さんがそこまで覚悟なさっていらっしゃるのであれば仕方な
いですね」
ロバート弁護士は、やっと折れてくれて、
「ただ、私は、弁護士達の気持ちを逆撫でしないためにも、陰で会わないほうがいい
と思います。そこで、オーナーをこの弁護士事務所に呼ぶように、ここの所長に頼んで
きます。弁護士達は最後のところが詰まっていないと難色を示すでしょうが、正々堂々と
オーナーを交えて話しましょうと申し込んできます。どうですか、秋月さん」
と付け加えた・
「オーナーと会わなければ,先へ進みませんからそれで結構です」
「ここの所長は比較的物分りもよく、私も何度か助けてもらったことがありますし、
また応援したこともありますので、
まず間違いなく応じてもらえる自信があります」
と言ってロバート弁護士は、控室を飛び出していった。
 当初、頼りないと思っていたロバート弁護士が、秋月たちの力強い味方となっていた。
 
「大丈夫でしょうか?」
鈴木は心配そうに問いかけてきた。
「まあ、ここまでくれば、なるようにしかならないさ。我々がすべきことはすべてやり終えたと思うし、先方に対しても真摯に対応してきたと思うよ。まあ後は“人事を尽くして天命を待つ”の心境かな」
「大阪の連中も、今か今かと調印の知らせを待っているでしょうね。この時間になっても連絡がこないのでイライラしていると思いますよ」
と鈴木は、疲労の色を染めた顔を秋月にむけながら呟いた。
 
それから1時間ほど経過した頃、やっとロバート弁護士が控室に戻ってきた。疲れた足取りであったが、眼がランランと輝いており、これは”手ごたえがあったな“と感じたとたん、案の定、開口一番、
「成功です。オーナーが了解しました。
ちょっと遅いですが、8時にこの事務所に来られるそうです。その時間に会議の再開
を設定しました」
と誇らしげな顔で言い放った。
 「よく、頑張ってくれましたね。本当に、有難う!!」
と秋月はおもわずロバート弁護士に手を差し伸べて、固く握り合っていた。
 
思えば、3日目の今日も、朝の9時からもう9時間以上が経っていた。3人とも昼の
ハンバーガーを齧っただけの1日であった。
この分だと今日も12時間は優に超えるだろうと予測しながら、
「よーし、いよいよ大詰めだな!」
と秋月は気合を入れなおした。
 
第5章 ビバリーヒルズの抱擁
 
 第1節  成約
 
「分かりました、秋月さん。私はあなたを信用しています。ミスター.秋月の言うとおりで結構です。これで契約しましょう。」
とキッパリと美しい女性オーナーは言い切った。
「あなた方と手を握ること、そしてあなた方を信頼すること、この2つがあれば、私のブランドが日本はおろかアジア中に大きく拡がっていくことが確信できます。あなた方と出会えて私は本当に幸せです。」
 
オーナー会議が開催された直後にこの言葉がオーナーから飛び出した。意気込んでいた秋月も肩透かしを食ったように、一瞬唖然とした表情で立ち尽くしていた。
 
淡いブルーを基調としたぼかしを刷り込んだ優雅なドレスに身を包んだこのオーナーは、確か五〇歳をとうに過ぎている筈であるが、容姿・身のこなしなど四〇歳そこそこしか見えない典型的な北欧美人である。旧共産圏からの移民によりアメリカに住み着き、1人でこれだけのブランドを育て上げた女傑で、今ではハリウッドの映画女優の殆どをその顧客とし、アカデミー賞授賞式では、全員の美容を引き受けるまでに成功していた。
いよいよ満を持して海外進出を図るにあたり、秋月のいる会社と出合ったのである。
秋月は、一瞬の驚きからすばやく立ち直る一方、「あなたを信用しています」というオーナーの言葉に涙がこぼれそうになりながら、おもわず手を差し伸べて、この美人オーナーに握手を求めた。
しかしながら“敵もさるもの” オーナーは握手する代わりに軽く秋月を抱擁し、耳元で
「だから私の渡航日当を1万ドルから1万5,000ドルにして頂戴ね」
と囁いたものである。
 
甘い香水の香りに包まれている秋月に
「No」
という回答は持ち合わせていなかった。
「OK、マダム。それではすぐに調印式を行いましょう」
 
このようにしてやっとの思いで実現した最終の会談はわずか10分で終了し、この全契約が無事調印の運びになったのである。
 
調印式が無事終了したその会議室に、いきなりシャンパンとオードブルが運び込まれて
きた。
「なんだ、これは?」
と鈴木君に聞くと
「今日はクリスマスで、オーナーが調印のお祝いを兼ねて差入れしてくれたそうです。この弁護士事務所に呼ばれた時に、注文したみたいですから、最初から彼女は調印するつもりできたみたいですよ!」
「そうか、今日はクリスマスか。向こうの弁護士さん達も大変だったろうね。日本と違って家族と一緒に過ごすのがアメリカ流なのだろう?」
「そうです。かれらも良く頑張りましたよ。彼らも戦友ですね」
と先ほどまでの疲れ顔をどこかに置き忘れたように、にこやかに鈴木が答えた。     
 
 歳2節 調印報告
 
 オーナーの心のこもったパーティがお開きになってから、秋月は、日本時間で午後の2時か3時ごろになることを見定めて会社に電話を入れた。
 「社長、無事調印が済みました。当初予定通りです。社長が拘っていた当社の言い分がほぼそのとおり通りましたよ。私の自慢話は帰国後改めて報告します。」
 「いやーご苦労様でした。これで年末前に帰れるね。秋月さんのことだから、あえて正月をアメリカで過ごすためにあえて、ゆっくり交渉していると思っていましたよ」                       
 「相変わらずきついお言葉ですね。でも今は社長に何を言われようと幸福感で、胸が一杯です。全部お褒めの言葉と聞こえますよ」          
 「あはっはっは!そのとおりですよ」
 「それじゃお言葉に甘えまして、これから2人で内祝いを行いますから、資金の方よろしくお願いします」
 「分かりました。本当に良くやってくれました。ご苦労さん!!」
と本音を言ったと思った社長が、
 「ところで、明日、また長い旅が控えているから、ほどほどに飲むようにしてください」
 「えっ! 明日帰るのですか? 今日はもう遅いですが!」
 「いや、もうそろそろ決着がつくだろうと思って、もう1つのブランドについての経営会議を明後日入れているんだよ。この件も君が苦労したのだから、居ないとどんな結論になるか分らないよ!」
 「いやー。お心遣い感謝します!」
 
 『くそ!この老体を良く働かせるものだ”』
と秋月は、ある意味で感心しながら、
 「分りました。飛行機が取れるようでしたら明日帰ります。予約が満杯の時は悪しからず、ご容赦を!」
と逆襲したつもりであったが、
 「秋月さん、全然心配いりませんよ。今、横で秘書の笹原君がネットで調べたら十分に空いているそうだよ。明日秋月さんの元気な姿が見られると思うと、嬉しくなるね!」
 『くそー、何と憎たらしい!』
と秋月はつぶやきながらも、
 「ええ、私も社長の元気な姿に明日接することができるなんて感激です。1時間でも早く帰ります。」
と答えていた。
 
社長との話が延々と続きそうであった、のでひとまず電話を切って、経営企画室にも電話を入れる。
 「無事、調印終わったよ。内容は当方の考えていたとおりで契約を済んだ。大成功だ。」
 「やりましたね」
と電話を受けた副室長の山野が
 「おーい、皆んな調印が終わって大成功だぜ!」
と全員に向かって叫んでいるのが聞こえた。
室員全員がこの電話を待ち構えていたようで、「ワー」という叫び声が電話を通して聞こ
えてくる。
 「全員が、朝から気になって何も手をつけられませんでしたよ。オッ! 中村女史がまた涙していますよ。代わりましょうか。」
と門田。
 「室長ありがとうございました。本当にお疲れ様でした。今感激しています。」
中村女史は、言葉が続かなくて、それだけの言葉を、思いを込めて応えてくれた。
 「室長、祝勝会はいつ、どこで、どのくらいの予算でしましょうか?」
山城が受話器を取り上げて叫んでいる。
 
このままでは、室員全員に受話器が廻されかねないと考えて、
 「分った。お祝いは帰ってからゆっくり考えよう。とにかく今は調印が終わった連絡だけだから、切るよ。」
といって秋月は、国際電話の受話器を置いた。