日大フットボール部騒動から見る日本の病巣


 日大フットボール部監督辞任表明でも、この騒動は収まりそうにない。
 メディア等は、日大の事後の対応を問題にし、危機管理部という学部があるにかかわらず、危機管理がなっていないとこき下ろす。
 その通りなのだろうが、この問題は一過性で見過ごすものではなく、もっと根が深いものと考えるべきである。私は、この日大の「組織防衛」の在り方に、今の日本の病巣が見えてくる。

 「何も言わず隠す」「うそを言い隠す」「議事録を改ざんする」「証拠を改ざんする」
 スポーツでいえば、大相撲協会レスリング協会、バトミントン協会等々、経済界でいえば、東芝の利益水増しの粉飾、日産・スバルの無資格検査、三菱の燃費改ざん、神戸製鋼の改ざんデータの作成等々、政治でいえば、有名な森友問題、加計問題にまつわる嘘、改ざん等々。皆その当該組織を防衛するためである。

 この「組織防衛」は、その組織に属する人にとっては「正義」であり、それなくして自らの生活基盤が成り立たないのである。かくいう私も、銀行時代、大蔵省検査時に「ヤバイ」証拠を隠した経験もある。(それは、検査立ち入り時に、先輩行員の机の中に誤解を生むメモ等がある可能性があり、その机の中身をごっそり、営業に出るふりをして、先輩の家に持っていき、奥さんに託したこと---もちろん時効であろう)
その時は、行員1人1人の生活基盤である所属企業を守り抜くという「正義の戦い」であったように思う。

 しかしながら、一連の騒動は何か様相が違うように思う。
 権力にすり寄って権力を得た者は、さらにうえの権力を手に入れるために、権力を与えてくれた者を(命令されなくても、これを忖度というのか)守り、ひいては自らを守るために、下の者に威圧的に、沈黙、改ざん等を指示するのである。
 そこには、スポーツ団体の頂点にある協会の社会的責任、企業が社会に対して負うべき責任、政治家が国民に対して負う責任・義務がスッポリ落っこちているように思う。その人たちの中に、そのような社会的責任の思いが欠片も見えないのは私だけであろうか?

 何故、このような様相が日本で見られるようになったのだろうか?
 昔の銀行時代の経験から考えてみた。
 当時は、合併銀行ゆえに会長派と頭取派が激しく主導権を巡り戦っていた。それ故に非効率な面が多く、利益が出ない銀行と揶揄されていたものである。
 ところがこの組織形態が、お互いの監視的役割を完全に果たし、効率は悪いものの決して企業がやってはならないことには歯止めがかかっていたように思う。これが1つの組織の在り方かもしれない。
 現在の政治にしても、まったく役に立たない野党は論外として、昔の自民党のように派閥中心の党運営が行われていた時代には、けっして今日のような問題は起こっていない。現在も派閥はあるが、その領袖は昔の政治家の気概もなく、いかに今の安倍さんにすり寄るかだけを考えて、直言しないゆえに、その派閥の存在が歯止めにならず、とんでもないことになっているのである。
 いまの企業も同様、無資格検査,データ改ざんなど、寄って立つ企業の存立が問われることを命令する方(ひょっとしたら命令はうけていないで忖度か)も問題であるが、自らの保身しか考えていない現場の長の行動も首をかしげざるを得ない。
 スポーツ団体もしかり。下の者が権力者にすり寄る姿しか見えない。

 なぜ、日本はこのようになってきたのであろうか?
 
 次回は、この回答に挑戦してみよう!!!