死生観


  先日、彼岸が近づいてきたので墓参りに出かけた。
  奈良、大和郡山法隆寺に近いところに、親父殿とお袋殿が安らかに(?)眠っている。親父は亡くなってもう25年以上経つが、お袋さんは亡くなってから4年ほどで、(?)享年90歳と往生(?)です。
  墓花と線香、それに親父には好きだった「たばこ」を供え、久しぶりに再会を果たし、「来年、古希を迎える歳になり、様々な障碍が出てきて大変」と報告するとともに、今後の安寧を願いました。
  残念ながら、「ドラマ」ではないので、親父、お袋からの「声」は聞こえませんでしたが、不思議なもので、何となく気持ち的に落ち着いたものです。そこで、この季節にしては暖かい日でもあったので、墓地の置石に腰を掛け、彼方に見える法起寺の三重塔、その向こうにかすかに見える法隆寺五重塔をしばらく眺めていたのです。
  その時、ふと、
  「親父、お袋は、今,一体何をしているのだろうか」
  「親父は寝転がって、煙草を吹かしながら、テレビをみているのだろうか、お袋は、食事の後片付けのため台所で忙しくしているのだろうか」とも考えてみましたが、
  「それはないな!家の宗旨は、鎌倉仏教の融通念仏宗なので、「仏」になっているはずだ。いや、家は杭全神社の氏子でもあるので、「神」になっているはずだ。仏や神がそんなことするはずがない。じゃあ何をしているのだろう?」
  「彼岸の世界は見たことがない(誰も)ので、分からない。自分んもやがて行くところなのにさっぱりイメージできない」
  「そもそも、死んだらなんで「仏」や「神」になるの?」
  このように自問自答していると、だんだん「不安」になって、「よし、しらべてみるか?」となった次第です。心境的には、前回ブログの中の在平業平「ついに行く 道とはかねて聞きしかど 昨日今日とは思わざりしを」です。