死生観2


  統計によりますと、日本人の約9000万人は仏教徒だといわれます。ただ、小生のように、結婚式、初参りは「神式」にもかかわらず、葬儀、墓参りは仏式という、潜在的仏教徒を含めると、日本人の大多数が仏教徒(それも神仏習合の)といえます。
 
  その仏教によりますと、「死生観」とは、死に対してどう考えるか、ということで、これを持つことによって「死」に対する不安が解消され、かつそれを持つことによって、この世でどんな準備をすればいいのかにも大きな影響を与えるそうです。

  現代人は、「死んだら無になる」と考えるそうで、かくいう小生もそのように考えていました。
  しかし、仏教では、死んだら無になるのでは、何のために頑張って生きているのかわからなくなり、「死」を見つめることを繰り返し教えます。その中身は「無常観」で、無常とは、常がない、続かないということで死のことで、また観とは、感じるのではなく観じる、つまり見つめるということなのだそうです。
  そこで、仏教では、「生死一如(しょうじいちにょ)」という概念を説き、生と死は反対のことではなく、2つであって1つ、1つであって2つ、切っても切り離せない関係にあることを説くのだそうです。すなわち、死を見つめることが生をみつめることになる、死を解決することが生を解決することになる、と説くのです。般若心経の「色即是空、空即是色」もこの類いで  分かったようで分からないのがいかにも仏教らしいです。

  一方、日本人にもなじみの深い神道では、死んだら「神」のもとに帰るといいますが、なぜか、「死」は「穢れ」として忌み嫌われています。葬儀に参列して帰ると塩で清めるのが、その証左だそうです。一説には、この嫌われる淵源は、日本の国土を生んだイザナギが、死んだ妻イザナミに会いに死後の世界である黄泉の国へ行きますが、ウジ虫が湧いて変わり果てた妻の姿に驚いて逃げ帰る、という神話にあるといいます。

  とにかく、この森、林、草花、河、石などあらゆる自然界に神々が宿り、人間に恵みを与えるし、災害をももたらす、という日本の土着の信仰(神道)は、外来の仏教に大きな影響を与えることになります。それが神仏習合で、神々が仏教化していき、前記の仏教の「無常観」も、元々は、「この地上に永遠なるものは1つも存在しない、形あるものは必ず滅びる、人はやがて死ぬ」という諦念的概念(旧来の無常観)から、ここに、日本的風土(自然界には、四季の巡りによる、蘇りと循環の無常の息遣い)が加味されることになるのです。
  具体的に言いますと、春には花が咲き、秋には紅葉と落ち葉、そして冬になって木枯らしが吹く。しかし年を越せば春が来る。照日、曇る日が循環し、それが生きる支えになっていく。粘り強く、柔らかな忍耐力が芽生え、やがて近づいてくる死の影、死の訪れを静かに受容して、土に帰る、自然に帰一する、という自然との一体感、神、仏との一体感が醸成され、「不安」よりも「安寧観」が生まれる、という「無常観」に変容していったそうです。  だからこそ、神道で、「死んだら神になる=自然に帰る」から仏教の「死んだら仏になる」という言葉が生まれ、日本人の大半は、そのように信じています。(仏教でいう「仏「」とは元々悟りを開いた人をいう)

  ここまで勉強してきましたが、辞世の句で言えば、無名の町奉行所与力神沢氏の「辞世とは 即迷い 唯死なん」(辞世とはその場における迷いに過ぎず、死が来れば、それに従うだけのことではないか)という心境です。
 
   しかし、 未だに頭の中は「もやっ」と霞のようです。仏教ではないですが、分かったようで分からない、分からないようで分かった感じで、じゃあ、生きている間は「何をすればいいのか」の回答はないように感じます。

   そこで、次回以降は、神道、仏教の奥深いところを、各宗派の紹介も含め、勉強していくことにします。