身近過ぎてよく分かっていないカミ(神道研究)
我々は、お正月に神社に初参りに出かけ、この1年の安寧と息災等を祈りますが、そのお参りする神社は、氏子だからではなくどの神社でも気にしていません。。ましてお祈りするカミが誰であるかは全く意に介していません。
これは一体どういうこと!
このように、日本人の殆どが、これほど身近にありながら分かっているようでいて、実態は良く分ってないのが「神道」なのではないでしょうか!
そこで今回は「神道」について学びます。
1、まず最初は「定義」です。
さてこれが難問です。というのはよく分からないのです。
例えば、日本人の平均的な「死生観」に関して、その中身を尋ねると、大体
・ 人間が死ぬと、霊魂になりしばらく周囲を彷徨っている。
→ だから「初七日」(死者が三途の川に到着した日)「四十九日」(死者
が極楽浄土に行けるようにと祈願する期間で、最終日は来世への行き先が
決まる日)の行事があるのです。
・ そのあと三途の川を渡って、あの世に行き仏(ないしカミ)になる。
・ ただ、現世に執着や怨念が強い場合は、成仏できず(=あの世に行けず)に
現世で幽霊となる。
・ 春、秋の彼岸には先祖の墓参りをし、お盆には、死者たちが家に戻ってくる。
→ 西方浄土に沈む太陽を礼拝し、遙か彼方の極楽浄土に思いをはせたのが
彼岸の始まりといわれますが、やがて、祖先供養の行事へと趣旨が変
わって定着したようです。
しかし、もともと彼岸の行事は日本独自のものでインドや中国の仏教に
だろうと推定されています。
・ 祖先は戒名をつけ、仏壇に位牌を祀り、その前で線香をあげる。
→ 日本古来の祖先信仰と仏教の融合と色々考えられますが、よくよく
考えると仏教でも神道でもなく、また純粋な民俗信仰とも異なり、それ
ぞれの内容が矛盾していることに気付きます。しかし、我々は普段この
矛盾に気付くことなく、そのように思っているのです。
だから定義が難しいのです。
そこで敢えて、専門家に神道を定義してもらうとすれば、
しかもその影響を受けて発達し、その精神生活の基盤となってきた民族信仰の
ことを言い、さらのそれを根底としての国民道徳、倫理、習俗までを含めて言う
場合もある」
となるそうです。
2、では、その専門家が上記のような定義に至った、神道の成り立ちとその後の経緯を、その専門家の言葉を借りで概観してみます。
この「神道」という語は、大陸から伝来してきた仏教に対して、日本にそれまで
に独自に発展してきた信仰、またその神の力というものを指して称している。
道徳、さらには教学を意味する語として用いられ、以後継承された。
後も継承されたものの、明治中期以降より「神道」に統一されていくことになる。
に従って神祇を祭祀し、これに基づいて生活するところの精神的営み」と定義づけ
られた。
ではない。
理由とするところは、神道が特定の教学的伝統を中心としたものではなく、原始
共同社会のおける全生活の中心的行事としての祭りの場より発生したものであり、
広範な精神現象、社会現象にかかわり、それは信仰、宗教の範囲のみでとらえられ
であり、またそれを基礎として展開させる文化現象のことを含めて言う、となる。
3、「定義」はともかくとして、次に進みましょう。
いわゆる「豆知識」です。
(1)神社神道
として、全国の神社を崇敬し、その祭祀を中心として、民族の道統を継承し、
文化を形成する民族の精神的な営みということもできる。
(2)教派神道
・明治以降、教義・教法をたて、教団を組織したもので、教祖・開祖の宗教的
(3)国家神道
(4)宮廷神道
(5)学派神道
治める理学の神道)等がある
ただ、定義さえも上記のように曖昧模糊としている上に、経典も教義もなく、開祖も存在しない中での探求ですので、果たして”回答”があるのかどうか???
(1)儒教
・ その考えは、まず、理想的で平和でトラブルの少ない素晴らしい「社会」
をつくることを目的とする。そのためには、王や官僚、庶民もそれぞれの
朋友」を大切にすべき、と教える。
→ あるべき姿が常にあり、そのために何を心がけるかの教えを明らかに
したものと考えられます。
(2)仏教
・「社会」の在り方には何も言及していなくて(そもそも社会という概念が
存在しない)「個人の生き方」についての教えを主眼とするものです。
<人間はなぜ苦しまなければならないか>
<何故、老い、病、死という苦しみから誰も逃れられないのか>
<苦しみだらけなのに、何故生まれることから逃れられないのか>