身近過ぎてよく分かっていないカミ(神道研究)

(2)仏教 
    ・「社会」の在り方には何も言及していなくて(そもそも社会という概念
     存在しない)「個人の生き方」についての教えを主眼とするものです。
       <人間はなぜ苦しまなければならないか>
       <何故、老い、病、死という苦しみから誰も逃れられないのか>
       <苦しみだらけなのに、何故生まれることから逃れられないのか>
         このことから、もともと苦しみだらけであることを知る(覚悟)ことから
     始め、その覚悟ができれば(調え、無くせば)、苦しみが和らぐはず
     あり、その思いを調える(無くす)方法は修行であり、祈りである、とする
     のです。
(3)神道における他の宗教の影響
  ・日本に伝わった仏教は、中国を経由して中国化し、漢語の仏典があり、教団
   組織がある。こうして学んだ仏に影響を受けて、奈良時代以降、神道におい
   ても「カミ」の観念を持ったと考えられます。
  ・それまでは、自然崇拝、諸物崇拝、祖先崇拝などを「カミ=尊いもの」
   し、そのカミの卓絶した神秘な能力を持つ存在とし、それが単なる存在だけ
   ではなく、信仰上の対象としていたのです。
  ・そして「カミ」概念を持った以降も、自然崇拝、諸物崇拝、祖先崇拝はやめ
   ませんでした。
  ・従って日本人は、儒教、仏教の影響を強く受けながらも、実に幅広い対象を
   カミと呼んだいることになり、それが現在まで継承されている不思議な民族
   といえます。
 
(4)死生観の変遷
    ・ 昔の日本人の死生観を想像すると、現在の神道に残っているように、
     後、「山に帰る」「地の底(黄泉の国)に行く」「海の彼方(常世)に
     くという考えがあり、また、「死の穢れ」の観念があり、死者が集落から
     離れたどこか遠くに行くと考えられたようです。
      死者はどこか遠くで穢れを清められたのちカミのようなものになるという
     祖先崇拝は日本独特の民俗信仰で、現在でも根深く日本人の心の中に潜んで
     います。
      仏教の「輪廻」が信じられたことはないのです。
    ・ 一方仏教は、人間を輪廻しつつ成仏を目指す修行の主体と考えたのです。
     すなわち、死んだ人間はすぐ別の生命に再生し、この世界でまた生きる。
     者の世界も、霊魂も存在しなかったのです。
      ところが、平安時代になって本地垂迹が唱えられ、日本の神々は、イン
     ドの様々な仏や菩薩が姿を変えて到来したものと考えられ、その考えが鎌倉
     時代に入り日本人の一般的な通念となったのです。

      死生観で言うと、人が死んでカミとなるなら、人が死んで仏になっても
     よい。そこで、仏教で初めて、輪廻を離脱して、極楽に往生する(浄土宗)
     ことを願うという概念がうまれ日本人に支持されたのです。仏教も日本
     独特の仏教に変容したといえます。
 
(5) 死を考えること、とは?
  ・ 広辞苑によると、死生観とは、死または生死に関する考え方、またはそれ
   に基づいた人生観とあります。
  ・ これに関して、訳知り人は、死生観を持つと、自分らしい(?)最後を
   迎えられるし、死に対する漠然とした不安や恐怖心が軽減され(?)、やり
   残したことが思い浮かび(?)、人生の新たな目標を見出すことができる。
   そのために1つは、これまでの人生を振り返り、2つ目はやり残したことを
   考え、最後に残りの日々の過ごし方を考えろ、
    と賢しらに説く人がいます。
    ただ、これでは「死の本質」が全く分からず、結局何もできないことと
   同じことを、その賢しらな訳知り人は分かっていません。
    
  ・ 大切なことは、「死において生を観じる」ことであって、「生から死を
   ることではない」ことだと思います。
    すなわち、上記の評論家の言葉は、「生から死を観ている」ことで
   あって、生きているときに死を考えても、それは単に、死を生の延長線上の
   最後に置くだけで死の本質を見ることはできなく何の解決にもならない
   ではないでしょうか!

  ・ これに対して死から見た生とは、生が生として真に自覚されるはずで、それ
   は、遺言とか辞世においての死生観を観て、はじめて生と死とを理解できる
   のではないかと考えました。
  ・ この検証として、以前紹介しました在原業平の辞世の句を採り上げます。
    「ついに行く 道とはかねてききしかど 昨日けふとはおもわざりしを」
    解釈
    「生を受けた者には必ず死がくる。そのことは前々からよく分かって
    た。しかしそれはいつかはくるということでしかなかった。それがきのう
    きょうのこと、ましてこんなにいまいまの現実になろうとは、おもっても
    みなかった。死とはこういうものだったのか」
 
  ・ 生から考えられた死は、観念以上のものではなく死という名の生ほか
   ならないと思います。
    現実に、死がすぐ傍にきている時点に立って、はじめてそれは生の否定と
   して実感されるのではないでしょうか!
    そのことを、この在原業平の辞世の句は言っているのだと思います。
    死を観とる生の、切ないまでの いとおしさがしみじみとこの句に感じら
   れませんか!
    そこには、生も死もあるがままの真実があり、だからこそ尊いだろうと
   思います。

以上、長々と死生観を論じてきましたが結局、死に直面するまでその本質は本人には分からない、ということになりました。これでは、あまりにも悲しいので、次回からは「仏教」から攻めていこうと思っています。
さて、どうなることやら????