「敬して近寄らず」
令和時代の天皇が誕生したことから、各メディアで天皇家、上皇家、皇室関係の記事が溢れている。総じて、もろ手を挙げての歓迎ムードで、おおいに結構なことであるが、気にかかることは、最近月刊誌を中心に、皇室関係の記事が目立ち、それも右傾の方の雑誌が、礼賛記事を頻繁に特集していることである。
これは、今の長期政権を誇る安倍首相自体が右傾の考え方で、かの有名な「国民会議」にも極めて近いのがその根源にあるのだろう。
考えてみると、初代(といわれる)神武天皇以来126代、現在まで連綿として続く国家は世界に類のない誇るべき歴史かも知れないが、御存じの通り、天照大神を祖とする神話は、記紀を編纂した天武・持統天皇が意図したものであり、また、何回もその血筋が入れ替わっていることに加え、皇室内での血なまぐさい抗争も多々あり、決して「綺麗ごと」で話せる家系ではないのが事実である。この「天皇崇拝」の強烈な概念を持ち出したのは、明治政府の国家神道主義の所産であることを強く念頭に置くべきだろう。
戦後70数年しかたっていない現在ではあるが、折角の民主主義を謳歌するのであれば、「現人神」から「国民の象徴」と変わった意味を、もう1度ゆっくりとかみしめてみる必要があるのではないだろうか!
すなわち、天皇及び皇室を「敬い」はするものの、国民は、利用されても利用してもならず、ある一定の距離を保って天皇及び皇室をみる習慣を根ずかせたいものである。
「テレビ」メディアの奢りを何とかしないと!
ラグビー人気に沸いている昨今だが、その中で代表選手がテレビメディアに引っ張りだこのようだ。これで、マイナースポーツだったラグビーがメジャー入りしたらこれほど良いことはないのだが、今、この代表選手に対するテレビメディアの敬意の足りなさが問題となっている。
各局の情報番組がゲストとして迎えた代表選手たちに、ラグビー以外の話題について意見を求めたり、全く関係のないのに番組の最後まで残していたり、スポーツ選手、それも現役をバラエティタレントと同じ扱いが見受けられ、そこに、肉弾戦とチームワークで鍛え戦ってきた選手に対する敬意は全く見られない、ということだ。
これは、テレビメディアの奢りの表れであり、「自分たちがラグビーを宣伝してやっている」という上から目線の態度である。これは従来から言われていることで、街頭ロケなど、「今ロケ中です」といって流れを封鎖したり、またそれを申し訳ないというのではなく、当然という顔で仕切っている見苦しさに気付いていない。これはスタッフばかりではなく、テレビに乗っかり顔が売れたタレントも何か錯覚しているように見える。
地上波の曲がり角と言えるかもしれない。
野党っていう「代物」は存在価値あるの?
久しぶりに国会の審議をNHKの中継でゆっくり拝見した。自民党・公明党の与党議員の質問の「阿諛追従」の馬鹿馬鹿しさ!(もう少し、自らの議員としての意見を述べるのが国民に対する義務のような気がするが)にもまして、野党議員の「中身のない」質問には、馬鹿馬鹿しさを通り越して、その存在する疑いたくなった。
まず、テレビ中継を意識して、質問の要点を言わず、できるだけテレビに映っている時間を伸ばそうとする見え見えの姿勢、さらに質問内容が「揚げ足取り」に終始し、自らの党が調べた内容は皆無で、マスコミが取り上げたものをそのまま信じて質問する。毎日どのような議員活動をしているのか聞いてみたい。
例えば、二階幹事長の発言「台風19号の被害が思った以上ではなかった」という発言に食いつき、延々と首相に質問を繰り返す。与党幹事長という立場は理解できるが、その発言の時点では、小生もあれだけの脅威という事前の報道にも拘らず、死者1名等、意外と災害規模は小さいものと思っていたくらいだから、野党議員もそう思ったのではないか。にもかかわらず、その言葉だけを採り上げ、首相の責任を問い詰めている。首相としてもこの国会論議のほかに、この災害の被害状況が拡大するに及んで、様々な会で指示を出しているのに、能天気に質問していると感じたのだろう、半分呆れて応答してた。
野党に質問するが、この間、被災地に出向き、目で見、足で実態を観てきたのか、支援のために党として何かをしようとしているのか、と。
今後の災害の拡大が見込めない中、揚げ足取りではなく、野党も如何に与党・政府と協力して何ができるかを「論戦」するべきであろう!
野党に「猛省」を促す次第である。
仏像に関する一考察その1
仏像研究
-その種類と現代的意義-
1、仏像の歴史
(1) 釈迦が生まれた時のインド社会はバラモン教が主流で、バラモン教では祭祀を中心とし、神像は作られなかった。したがって、原始仏教もこの社会的背景の影響下にあり、偶像はなかった。これは、原始仏教が宗教的側面もあったが、自然の摂理を観ずる哲学的側面の方が強かったためにもよる。
(2) しかし、釈迦入滅後、仏の教えを伝えるために図画化していくが、それでは飽き足らず、釈迦の象徴として、宝輪や仏足石、菩提樹などが現れる。
そして行きつくところは、何とか釈迦の姿を、ということで釈迦像が生まれたとされる。
(3) それ以後は、大乗仏教、小乗仏教、さらにはその中の各宗派の経典に沿った様々な仏が唱えられ、それに沿った仏像が様々に制作されていったのである。
(4) このように、様々な「仏像」は、各宗派の教えを大衆に分かり易く説明するための道具であったが、何時の頃からか、神仏習合も手伝い、崇拝対象そのものに昇華し、現在に至っている。
そこに、宗派ごとの教えの違いはなく、様々な仏像が脈絡なく崇拝され、遂には美術品の対象になっていくのである。
(5) 確かに、小生などは、日本の寺院に祀られている仏像の貌を眺めていると、精神的な安定感・安堵感に満たされるように感じ、さらにはその仏像自身の神々しさが迫ってくるように感じるときが多々ある。日本民族の独特の精神風土に根差しているせいかもしれない。
(6) そこで、以下では、仏像の種類、あるいは拠って立つ由来も知らないで、ただ単なる崇拝の対象として拝んでいる「仏像」を改めてその起源も含め学習し、改めて、この「偶像崇拝」を実践している日本人的「心」とは何かを突き詰めてみようと思う。
今どきの財界トップの小粒さ!
かんぽ生命不正における郵政3社のトップの往生際の悪さ、経営トップとしての責任感の欠如などが際立っていたが、ここにきて関西電力が不透明な金銭の授受で、経営トップの11人がマスコミの攻撃対象になっている。この会見も、認識の低さ、稚拙な思考、経営の責任感の欠如が露骨に垣間見えた会見となった。
かっての国策企業であった郵政、日本企業の中でのトップクラスの関西電力という名門企業のこの体たらくは如何なものか!!どうしてこのように「小粒化」してしまったのか?
波風の立たない職場環境で、出過ぎず、それでいて言われたことはきちっと仕事をこなし、さらに上司の言わんとするところを忖度して行動を起こす、このような人材は、上司ひいては経営トップに「愛い奴」と目を掛けられる。そして自然とトップに就いたという人材なのであろう。その間、自らの信念に伴う意見具申はおそらく皆無だろうし、ましてやトップに諫言することなど考えもしなかった人材なのであろう。
何とも頼りないが、今の若いネット企業の経営者の方が、まだましなような気がする。
日本の将来を憂える1人である。
かんぽ生命不正から見る旧住友銀行の亡霊
かんぽ生命の不正がマスコミを賑わして久しいが、結局誰も何の責任も取らず、現場の郵便局員のみが懲戒対象となっただけである。最近、日本郵政の長門社長(興銀→みすほコープ)はじめ日本郵便の横山社長(住友→三井住友)、かんぽ生命の植平社長(東京海上)のトップ三人の経営責任問題が浮上しているとい記事をみた。事実上人事権を握っているのは首相官邸で、郵政族議員の思い通りに動かない、という理由らしいが、そこに不正販売の反省の欠片も見えない。もっと笑える記事は、三井住友銀行がノルマの廃止を謳ったそうだ。「そんなバカな!!」
そもそも「かんぽ生命不正」とは、顧客を騙して二重契約あるいは無保険状態を生じさせ、ひた走りに「ノルマ」達成に上位下達方式でひた走ったことである。すなわち、①徹底したノルマ主義、②表裏なす飴と鞭(手当の格差→給料の格差)、③脱法行為の指南(局長、部長級が知らない筈がない)、④利益至上主義、顧客目線の放棄などが指摘できる。
小生も銀行員として30年過ごした経験からものを言わせてもらうと、これは正しく住友銀行方式そのもののやり方である。若手営業マンとして住友とはライバルであったが、そのやり方あくどさ、それでいて資金の引き上げの速さ、朝駆け夜討ちの24時間営業体制で、当時これをセブンイレブン方式と言っていたが、当時の上司から「住友を見習え」と言われたものだ。
郵政民営化の時の初代に西川氏という住友イムズの権化を選任したことが大きなつまずきの元だが、その彼が、自らのイムズに迎合する旧部下を郵政に引っ張んて来て、今の日本郵政の経営イムズを作っていったのである。したがって、このかんぽ不正は当然の結果なのであって、その本家本元の三井住友が「ノルマ主義廃止」と今頃叫んでいるのは笑止に堪えない。