j熟年の生きる価値第1回

熟年の生きる価値(第1部)
団塊の世代が歩んだ定年後の
         「生き甲斐」を求めて―
 
作   秋月  蕾心
 
 プロローグ
 
 午前8時55分。朝礼による支店長訓辞を終えてから、その男は支店長室に直行した。
 入室するや否や、すぐに、模造紙を机一杯に拡げてみせた。
 模造紙には、支店の数字がグラフ化され、目標との乖離が一目で分かるように色分けされていた。
 その男は『こめかみ』に手を当て、
 「さてどうするか!」
 支店の成績が悪いのだろうか、ため息をつきながら、椅子に深々と座り込んでしまった。
 座り込んだその椅子は、総革張りの、背もたれが頭の上にまで達する、なかなかの年代物のようだ。
 ただ、この男をよく見ると、彼の眼は全く数字を見ていないことが分かる。
 色グラフの色は確かに瞳に映ってはいるものの、数字自体は写っていないのである。
 一体、どうしたというのか?
 
「昨日はちょっとハメを外して飲み過ぎたな。頭が重い」
と独り言。
 な、何と!彼は、単なる二日酔いで頭を抱えているに過ぎなかったのである。
 
 ここは、大手都市銀行の支店長室。
 しかもその銀行では大型店舗に属し、融資額、預金額ともに2500億円を超え、従業員も120人、パートを含めると130人の規模を誇る、大阪の北に位置する店舗である。
 支店長室の中を少し覗いてみよう。
 70年以上の歴史と伝統を誇るかのように、その広さは優に20坪以上はある。
 調度品も、代々の支店長が使い込んだと思われるデコラ張りの大机、その大きさは両手を
広げても届かない。
 その大机の前には本革の黒っぽい巨大な応接セットがこの部屋のかなりの範囲をしめている。
 さらに、支店長の大机の後ろには、木目調のこげ茶色がいかにも年代を感じさせる飾り棚が
あり、京都の清水焼と思われる「深青色」鮮やかな、直系1メートルは優に超えようかと
いう大壺が飾られていた。
 また、周囲の壁を見回すと、窓を除いた三方には、風景画を中心に、相当値が張ると
思われる油絵五枚が架けられていた。
 
 この不必要な大きさと高価な調度品は、意識的か無意識的か、この支店長室を訪れる人たち
に、ちょっとした威圧感を感じさせる部屋になっていた。
ただ、その部屋の中で、この部屋の威圧感を和らげているのは、御堂筋に沿って開いている
西側の大きな窓と部屋を彩っている花木であろう。
大きく切り取られた西側の窓には、窓枠を額縁として、まさに真っ盛りを迎えたイチョウ
木々とその「深黄色」の葉が目に飛び込んでくるし、執務デスクの上の一輪挿しに何気なく
投げ込まれている2~3本の白い菊の花。この二つの色の明るさと透明感が、部屋全体に
拡がり、この部屋全体の雰囲気を明るくしている。
 何のためにこれ程の部屋が必要か、理解に苦しむところだが、本日は、この男ただ1人の
二日酔いを癒す場所にしか過ぎなくなっている。
 
しばらくの間、目をつぶってこめかみに手をやっていた男は、
「いかん!これは相当重症だ」
とつぶやき、
『これでは、決裁の案件を持ってこられても、とてもまともな判断はできそうにはない。』
と思い決め、机の上の内線電話を採りあげた。
「少し急ぎの仕事が入っているので、よほどの緊急な要件がない限り、この支店町室に
取り次ぐ必要はありません。後は適当によろしく頼みます。」
と副支店長に依頼した。
結局、朝からそのゴージャスで重厚感ある支店長室に籠もっている二日酔いの男こそ、本編の主役である秋月彰である。
 
秋月は、支店長職を三回も務めるベテラン銀行員である。
一応、一流といわれるものの私立大学の卒業で、ほぼ2年に1回の転勤を重ねてきた男で
ある。
30代で最初の支店長を経験し、そして大店と言われるこの大阪の店を任されているところ
をみると、私立大学出としては、比較的順調に昇進を遂げている人物といえる。
なぜなら、彼は昭和24年生まれの52歳、いわゆる「団塊の世代」といわれ、人生の中の
競争は勿論、銀行の中での競争も極めて熾烈なものがあることを考えると、恵まれた環境
(勿論彼の能力が伴ったことは当然として)にあったといえる。
髪こそ少し白いものが混じり始めてはいるものの、甘いマスクとともに、銀行員してある
いは人間としても、まさに「旬」を迎えている男でもあった