日本沈没ー日本の中における「閉塞感」「無力感」まとめ⑤

 ① 昔のある都市銀行の風景
     ・ 入行当初の風景
       小生が銀行に入った(1973年)ばかりの銀行風景から語ろう。
       この年は、第一次オイルショックが発生し、従来のいわゆる「いざなぎ景
気」を急激に冷やす事件が勃発した年である。卸売物価指数が消費者物価指
数よりも高い上昇率となり、物価は上昇するが不景気であるという、いわゆ
スタグフレーションに陥ったのである。
       そんな世の中のことは全く関係なく、小生は、東京の銀座に配属されて、意気揚々と新調のスーツを着こなして出勤したものであった。
       ところが、朝1番から始まるのが「整札」という作業である。これは、
前日店頭等で預かった紙幣を、紙幣種類ごとに百枚に束ねることだが、その
間に、古くなりすぎた紙幣、紙幣の端が縮れたり、切れたりした紙幣を「目
視(もくし」」で選り分け、「損券」として日本銀行に送り返す作業である。
ご存じだろうか? 意外と紙幣が汚れていることを。1時間以上作業を続
けていると手が真っ黒になるのである。
       さて、やっと「整札」が終わったと思ったら、日銀から現金輸送車で硬貨
が送られてくる。1万枚の各種の硬貨がそれぞれの麻袋に入っており、この
1つの重さは米俵ほどの重量がある。そして、この重い麻袋から硬貨を「硬
貨選別機」流し込み、50枚毎のブロックを作るのである。
それ自体も結構時間がかかるが、厄介なのは、選別が終わった段階で硬貨
が1枚器械に残っていることである。日銀が枚数を間違うはずが無く、それ
は50枚ブロックのどれかが49枚ということを意味する。さあ~、これを
見つけるのが大変である。「これだ」と思ったブロックを破り、新たに選別機
にかけるが50枚あり、また次の「らしい」ブロックを取り、また繰り返の
である。
       新調のスーツは全く必要なく、「本当に銀行に入ったのかな」と忸怩たる
ものがあったのを良く覚えている。
       さていよいよ退行時間と思ったら、今度はお店の「計算」が合わないと
いう。すなわち伝票の合計と現金が一致しないことである。新人ももう1度
現金(硬貨も含め)を勘定し直し、「互明さん」の声がかかるまで、それが深
夜12時を過ぎようが続くのである。
 
       現在では、この風景は全く見られないはずである。巨額なシステム投資に
より、計算の合致はすべてコンピューターに任され、「合わない」という言葉
は死語となっている。したがって、総合職の新人も、いきなり対人関係が重
視される営業から学ばされ、いわゆる「下積み」生活はないのである。
 
       無駄な時間だったようにみえるが、小生にとっては、この時間は「お金の
大切さ・貴重さ」と同時に「お金の怖さ」を身に染みて学んだ時期ではない
かと考えている。この時期があったからこそ優秀な銀行員(?)として、無
事、30年間の銀行員生活を終えることができたと思う。
 
     ・ 東京郊外支店長の1
       42歳で最初の支店長を命じられた。場所は東京郊外で、比較的古くから東
京のベットタウンとして栄え、赴任当初は、駅前再開発の真最中の小田急沿
線の店舗であった。店舗性格は個人預金をかき集める使命を持っており、公
社に土地を売った地元の農家(地主)の方が大口預金先であった。
       朝8時ころ出勤し、1階ロビーに全行員を集め朝礼を開始。9時店舗のシ
ャッターを開け、店頭に立ってお客さまを迎える。
しばらくすると駅前でホテルを建設中の地主が相談事ということで店舗に
来られ、支店長室に通し、1時間ほど話し込む。
そうこうしているうちに15日の年金受け取りに、大勢のお客様がロー
カウンターに押し寄せる。その店頭整理を手伝うと同時に、受取口座を
お持ちのお客様に粗品を手渡す。
その粗品は、十二支の土鈴で、2年間口座を維持していただければ、十二
支の土鈴すべて揃い、すべてを飾るケースを最後にお渡しするという、工夫
もしたものであった。
       昼前になって、そろそろ食堂に行こう(このころ、銀行は自前の食堂を備
え、賄い人も外部業者に委託していた)と思ったところ、お客様が裏口から
来て食堂に上がっていったとの報告。急いで2階の食堂に上がっていくと、その途中の廊下は泥まみれ。「あれっ」と思って食堂に行くと、そのお客様は、食堂で籠一杯の様々な野菜を差し入れているところで、足元を見ると畑の泥が付いたままの長靴であった。これが原因かと妙に納得。
このお客様は億円単位の大口預金先の地主さんで、駅前の大邸宅に住んでおられるものの、まだ畑仕事は続けられ、その収穫の1部を「おすそ分」として差し入れたものらしい。
       だが、実はここからが問題となる。その方はお酒をこよなく愛しておられ
るのだが、娘さんを事故死で失って以来、寂しさを紛らわすために深酒気味。
そしてそのお相手が、かくいう小生なのである。
「食堂のおばさん」が何も言わないのに、当然のごとく、持ち込まれた
野菜をすぐに「おひたし」にして、ビールの大瓶2本と一緒に机の上におい
ていくのである。家でも昼からのアルコールは家内に許されていないのだが、
仕事としての昼酒はやむを得ない、と観念して3時ころまでお付き合い。
       その後、お酒に酔ったその地主さんを支店長車でお送りし、奥様に丁寧に
ご挨拶のうえ身柄をお預けして、支店長の役目は放免。
すぐに店にとんぼ帰りし、勘定の締めに立ち会い、個人ローンを含めた
融資案件に目を通し、決済印を押す。
 
       「本当に、大手都市銀行の支店長なのだろうか!」と忸怩たる思いを抱い
たいた。
 
       もうこのような郊外店舗はなくなっていると思うが、テリトリー内の住民
とは、お金を預かっている、あるいは融資をしているという関係を超えて、
様々な、それも銀行業務とは全く関係のないことまでも含めて相談された。
2年半後に転勤が決まった時には、「本当に涙を流していただいたお客様がい
た」という事実は、今の銀行、特にメガバンクには絶対見られない光景であ
ると、自負している。
 
それが銀行の収益と「直接結びつかないことで無駄である」あるいは「あ
った」と今の経営陣はいうのだろうか?